当サイトの一部に広告を含みます。
神社という場所に、私は安心感を覚える。それは決して信仰心が篤いからではなくて、ただ、そこにある静けさや規律が心地よいから。
けれど、今日。鳥居の上に浮かぶ見慣れぬ存在が視界に入った瞬間、私は軽く戸惑った。翼のある裸の天使が、電線の上から参拝客を見下ろしている。それはたぶん装飾なのだろう。でも、どこかちぐはぐで、居心地の悪い違和感だけが残った。
関連投稿
混線する存在感
門の上に天使がいた。鳥居の赤の上に、西洋風の彫像が笑っていた。それだけでも十分に違和感だったのに、門の奥に広がる空間は、その何倍も「わけのわからない世界」だった。

看板には「箱根大天狗山神社」とある。調べてみると、どうやら“霊験あらたかな天狗を祀る神社”らしい。参拝の案内には「金運」「勝運」「良縁」などが並ぶ。
けれど、どこか腑に落ちない。
天狗というよりも、西洋の天使が印象を支配していて、神仏混交とも、観光演出とも、言い切れない。そのあいまいさが、この場所を“観察対象”にしてしまう。
赤と黒のはざまで

この「箱根大天狗山神社」は、どうやら「水子供養の神社」でもあるらしい。境内の撮影は禁止されており、そのことがよりいっそう不気味さを際立たせた。
仏像、お釈迦様、カラフルな鯉のぼり、ピカピカした水晶のようなもの、ガラスの中に詰め込まれたぬいぐるみやお菓子……。いろいろなものが混在し、一見統一感はない。しかし、明確な「悪意」もまた、どこにもない。
門の向こうは異国

おそらくすべては「子どもたちのために」という善意から始まっている。それを否定することはできない。
でも、私はそこに立ち尽くしてしまった。自分の中に芽生えた“気味の悪さ”の正体がうまく言語化できないまま、ただシャッターを切ることもできずに。
アクセス情報
【関連リンク】箱根大天狗山神社公式ホームページ
おわりに
これはきっと、「やさしさ」が歪む瞬間を見てしまったのだと思う。祈りと演出が混ざり合い、信仰と装飾が溶けきらないまま折り重なった場所。
私にはうまく説明できない。
ただ、この違和感だけは、ずっと胸のどこかに残り続けている。