なぜ名作は「その時代のもの」にされてしまうのか?時代を超える名作と、世代の壁

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「世代じゃない」と言われると悲しくなる話

「えっ、その作品好きなの? でも、世代じゃないでしょ?」
 
こんな|言葉《セリフ》を言われた、または言われている場面を見たことはないだろうか。筆者はこれを言われると、なんとも言えぬ切なさに襲われる。好きなものを語ったはずが、急に「君は対象外」とか「部外者だ」と言われたような気持ちになるのである。

 今回は、そんな「世代じゃない問題」につき、筆者なりの考えをお話したい。


「世代じゃない」と言われたエピソード

 筆者がこの呪言じゅごんを吐かれたのは、ある名作アニメについて話していたときだ。その作品は筆者の乳児期から幼児期頃に放送されていたようで、地上波での再放送は目にしたことがない。しかし、当時の筆者はDVDを全巻揃えて観たのだ。周りの先輩たちが話していたのを機に鑑賞し、ものの見事に帰らぬ人となっただけのことだ。ストーリーは訳がわからないが、演出やキャラクターの心理描写が素晴らしく、何度も観たくなる名作である。

 興奮気味にその話をしていたところ、その場に居合わせた上司から「え、でも世代じゃないでしょ?」の爆撃に遭ったわけである。

 その瞬間、筆者は衝撃を受けた。「好き」だという気持ちを否定されたような気がした。けれど、「世代じゃないんですかねぇ」とへらへら笑い、なんとなくその場では話題を変えたのだった。


「世代」の基準はどこじゃろな

 「世代じゃない」という言葉がいう「世代」とは、実はすごく曖昧な概念だ。発言者自身、厳密な定義があるわけじゃなく、なんとなく「この作品はこの時期に流行ったから、その時にリアルタイムで体験していない人は対象外|っぽい《・・・》」という感覚で使っていることが多いように思う。

① リアルタイムで触れていたか

 たとえば、子どもの頃に放送されていたアニメや特撮、学生時代に流行った音楽や映画に対し、その当時を生きていた人だけが”ドンピシャ”で楽しんだものという印象を持たれることがある。

② ブームを体験したかどうか

 また、作品そのものではなく、「その作品が社会的に盛り上がっていた時期を知っているか」を重要視するパターンもある。この場合、90年代後半に爆発的に流行ったポケモン、2000年代のハリーポッター現象など、リアルタイムで「社会全体がその作品に夢中になっていた」空気を知っている人だけを“世代”認定する傾向が強い。

③ 思い出補正があるか

 その作品と一緒に成長した人のうち、「俺たちの世代のもの」と捉え、当時の記憶を絡めている場合、自分の記憶外にいる人を「対象外」とみなす傾向が強い。しかし、それはあくまで個人の体験に過ぎず、同時期に別のシチュエーションで楽しんでいた人には当てはまらないし、別の時代に楽しむ人にも勿論あてはまらない。

「世代」の枠組み、いらなくない?

 本来、世に出た作品は全ての世代が楽しむ権利を持っているはずが、「世代じゃない」の呪言には、なんとなく「君はこの作品の本当の良さを知らないだろう」というニュアンスが含まれる場合がある。けれど、それは結局、発言者自身が「特別な存在でいたい」という心の表れだったりする。

 実際のところ、世代を超えて愛される作品はたくさんあり、時代の変化に伴い、新たな解釈や価値が生まれることもある。「世代じゃない」と言われたからといって、他人の趣味趣向をどうにかすることはできない。

 結論として、この呪言が指す世代とは、その人の主観的な記憶を指しているだけ。「好きなものは好き」で良いではないか。


なぜ「世代じゃない」は悲しくなるのか

 ―とはいえ、言われれば多少なりとも傷つくこの言葉。なぜ刺さるのか理由を考えてみた。

1. 好きな気持ちを否定されたように感じる

 この呪言には、「あなたがその作品を好きなのは不自然」というニュアンスが含まれることも多い。もちろん、すべての人がそう思っているわけではないだろう。悪意なく言っているとすれば、単なる驚きの表現なのだろう。しかし、受け取る側として、「本当は好きになってはいけないのか」と多少なりともモヤモヤしてしまう。

① 好きなものは「自分の一部」

 人が何かを好きになると、単なる作品から自分の価値観やアイデンティティの一部となることが多い。たとえば、あるアニメや映画を好きな理由に以下が含まれる場合を考えてみよう。

  • キャラやストーリーに共感した
  • その作品に救われた経験がある
  • その世界観に強く惹かれる

 この場合、自分自身の感情や経験に当該作品は結びついているため、単に、その作品のことを話す資格がないと言われているだけでなく、自らの価値観や感性そのものを軽んじて見られたように思うのだろう。

② 共感の場を求めたはずが拒絶

 好きなものを語るとき、相手から「いいよね」「わかる」と言われると嬉しくなることがある。これは、自分が好きなものを通し、相手とのつながりを感じたいという心理がはたらいている。

 この点、「世代じゃない」発言は、感想の正当性を否定し、相手との対話を拒否しているような印象を与える。特に、好きなものを語るときは、純粋に楽しさを共有したい場合が多く、丸腰だ。そこにテロさながらの爆撃を仕掛けられたら誰だって無傷では済まない。

③ 「好きなものを好きでいる自由」が脅かされる

 原則、我々は何を好きになってもいい。自由だ。しかし、「世代じゃない」発言のせいで、他人が勝手に自分を評価する構図が完成する。たとえば、好きな曲を聴いているときに当該発言を受けたとする。すると、あなたの中には、「世代かどうかじゃなく、好きだから聴いている」という気持ちが芽生えはしないだろうか。

 本来は、いつ、だれが、だれを好きになってもいいのに、対象は○○世代のものだという枠を押し付けられ、理不尽に自由を妨害されたような気持になるのだ。

④ 「特別なもの」を守りたい心理 vs. 新しいファンの心理

 ここで発言者の気持ちを考える。「世代じゃない」と言う人は、おそらく防衛本能を持っている。具体的には、その作品と紐づいている自分の思い出や経験を特別扱いし、他者に侵されたくないのだろう。

「自分たちがリアルタイムで体験したからこそ価値がある」
「昔はこういう文脈があって流行ったんだ」

 こうした気持ちがあるため、自分より後に作品を知った人に対し、「世代じゃないでしょ」とやや上から言ってしまうのかもしれない。けれど、子の言動は新しいファンにしてみると、とても寂しいことである。

 順番やタイミングに関係なく、その作品を愛する気持ちを持っていればいい。このように考えられる人間がこうした言葉をかけられると、思考の違いから「モヤモヤ」してしまうのだろう。


2. 仲間外れにされた気持ちになる

 「世代じゃない」発言に対して抱く「モヤモヤ」の理由に、仲間外れにされたような気持ちになることが挙げられる。これは、単なる「作品の話ができなかった」以上の心理的な影響があるのではなかろうか。

① 同じものを好きなのに仲間だと認めてもらえない寂しさ

 通常、互いの共通項は仲間意識を抱くきっかけとなる。

  • あのシーン最高だよね
  • このキャラめっちゃ好き

 このように盛り上がることができると、「この人も同じ気持ちなのだ」と嬉しくなるものだ。
 しかし、「世代じゃない」発言を受けた瞬間、仲間に入れてもらえない壁ができる。本来、「好き」という気持ちのみでつながることができるはずが、「いや、君は違う」と拒まれたと感じるのである。「好きなものを共有できる仲間」だと思った相手が実は違ったというギャップは、あなたに寂しさやモヤモヤを与える原因となる。

② 組織に属していたい本能

 通常、人は何らかの|組織《グループ》に所属したいという本能を持っている。心理学的にいうと「社会的欲求」といい、他者とつながりたい、仲間でいたいと感じるのは自然なことである。そのため、何らかのファンコミュニティへの所属願望は当然で、好きな作品について語らいたいのも「同じものを好きな人とつながりたい」という気持ちの表れだ。

 この点、「世代じゃない」発言は、そのコミュニティに入ることを拒まれるのと同じこと。わざわざ「あなたはこのグループの一員ではない」と目の前で、しかも大声で叫ばれたような心境に至る。特に、その作品を好きになってから長いとか、深く理解しようと努力している場合、傷は深刻化する。

③ 共有をシャットアウトされる悲しさ

 好きなものについて話すとき、ただ作品について語りたいというだけでなく、「自分の気持ちを共有したい」という願望がある。たとえば、あるアニメや映画に感動し、「このシーンすごくよかったね」と誰かに話したとしよう。そのときに、「ああ、わかる!」と言われると嬉しいが、逆に「いや、それって俺たちの世代のものなんだけど」と言われると、気持ちを受け取ってもらえなかったような気分になる。自分にとって大切な作品のはずが、一緒に楽しもうとした相手に「君のものじゃない」と言われるのだ。

 要するに、「ここにいていいよ」と言ってほしかったのに、「入ってこないで」と拒まれたような気持ちになり、悲しいのだろう。

④ 特別な思い出を共有できない孤独感

 「世代」という言葉には、その作品が流行ったときの空気感や思い出まで含まれてることが多い。

  • あのアニメ、学校でめっちゃ話題になったよね
  • 映画の公開日に朝から並んだよ
  • この曲、文化祭でめっちゃ流れてたね

 こんな風に、相手が時代と思い出をセットにしていると、自分たちは特別な体験をしたという意識が生まれる。そこへ「世代じゃない」爆弾が投じられ、同じ経験・記憶を持つ人たちの輪に新参者は入れず、その思い出から突き放されたような気持ちになる。

⑤ 自分を場違いだと感じる不安

 「世代じゃない」発言により、好きなものに対し、「場違いなのかもしれない」という不安が生じる場合がある。

たとえば、

  • この作品を好きだと言うと、リアタイ勢から嫌がられるかも
  • 自分の解釈は”本物のファン”からすると浅いと思われる…?
  • 新参者には楽しむ資格がないのでは…

といった具合に、好きだという気持ちだけでなく、自分そのものを否定されたよぅに感じることがある。

 本来、作品を好きになるのに順番も資格も関係ないはずが、相手の言葉ひとつで「自分はここにいていいのか」という気持ちになるのだから、使い方を誤った言葉は残酷な凶器だ。

3. 作品が「時代」に閉じ込められる

 「作品が『時代』に閉じ込められる」感覚は、作品が持つ普遍的な価値を狭い枠に押し込める不安や寂しさから来ていることが多い。

① 作品がその時代背景と切り離せないと思われる不安

 多くの作品は、その時代や社会的な背景に強く影響を受けて作られている。戦争や政治的な出来事、文化のℓ変化などを描いている場合のほか、流行や価値観が作品に反映されている場合、その作品が「時代の産物」として認識されることがある。

 たとえば、80年代や90年代に流行った作品のうち、その時代の技術や価値観、流行を色濃く反映されたものを振り返るときには、どうしても当時のものとして見られがちだ。そうなると…

  • その時代の感覚を持っている人しか共感できない
  • 今の時代には通用しないかもしれない

という不安が生じる。この不安は、作品が「時代もの」という枠に閉じ込められることを意味する。

 どんなに素晴らしい作品も、あくまであの時代のものとして扱われると、本来持っているはずの普遍的な魅力が見逃される可能性がある。

② 作品が時代に縛られると新たなファン獲得が難しい

 作品を「時代もの」と認識した場合、若い世代が触れようとしたときに「共感できなそう」と敬遠されることもある。たとえば、あなたの両親世代の映画を観ようと思い立ったはいいものの、その時代背景や価値観、流行に馴染みがないことがある。そうなると、かえってその魅力を感じにくくなる。

 すると、作品は次第に「その時代」に閉じ込められ、新しくファンになってくれるはずの人たちがその作品を受け入れづらくなる。

③ 作品に込められたメッセージが時代によって変化してしまうリスク

 作品が製作当時の社会的背景や価値観を反映していると、時間の経過に伴い、そのメッセージが時代錯誤だと感じられる場合がある。

 たとえば、昔の映画やテレビドラマには、今の基準では差別的な描写性別役割に偏った描写があることがあるよね。そういった要素は、現代においては時代遅れとされ、作品全体がその**「古さ」に捉えられがち**。

これが「時代のもの」というレッテルを貼られる理由でもあるけれど、その結果、作品の持つ本来のメッセージや価値が**「時代性」に縛られて伝わりづらくなる**。本来の意図が、現代の視点から見ると誤解されてしまうリスクも高くなり、その作品が持っている本質的な魅力や普遍的なメッセージが埋もれてしまうことがある。

④ 「時代のもの」に閉じ込められると新たな解釈や感動のチャンスを失う

 「時代のもの」として見られると、その作品の価値はその時代に限定され、後世における新たな解釈や視点による発見、再評価が難しくなる。たとえば、ある映画の公開時期において、政治的な意図や社会的な背景に触れられることがなかったとする。しかし、時を経てその作品を新たな視点でとらえ、再評価されることがある。この点ついて、もしその作品が「時代のもの」として閉じ込められているとその機会は奪われるのである。

 ある映画の公開から20年後に再評価されるとして、その作品に込められたメッセージが時代を超える普遍的な価値を持っていることを知ることもある。にもかかわらず、|最初《はな》から「その時代限定のもの」として見られ続けてしまえば、再評価の機会は失われ、新たな感動が生まれにくくなる。このことはファンにとって大きな損失だと言わざるを得ない。

⑤ 「時代のもの」として終わる寂しさ

 最も深刻な問題は、その作品が永遠に色褪せることだと筆者は思う。

 たとえ全世界を感動の渦に巻き込む大ヒット作品であっても、それを愛した人とともに、その作品も年を重ねる。その結果、懐かしいものや昔のものとして扱われるのみになるのは避けたい。いや、それならまだいい。自分にとって特別なものが、「時代が変わって古くなった」と言われるのは仕方のない面もあるだろう。しかし、完全に忘れ去られる可能性には反発したい。

 こうした考えに賛同できぬ「世代じゃない」の発言者には何を言っても無駄だろうという諦めと呆れ、寂しさがモヤモヤの根源だと思う。


作品の魅力は世代を超える

 ここで、作品には本当に「世代」があるのかを考えたい。

 確かに、その時代の流行や価値観を反映する作品は多い。けれど、それだけで作品の価値が決まるとは言えない。むしろ、時代を超えて楽しめる作品こそ、真の素晴らしさではないか。
 文学や映画の世界には、何十年、何百年も愛され続ける作品がある。シェイクスピアの戯曲やジブリ映画、90年代の名作アニメ――これらは、世代を超えて新たなファンを生み出し続けているではないか。

 筆者が好きな作品だって、もともと別の世代の人が楽しんでいたものかもしれない。しかし、今この時代に生きる筆者がそれを観て心を動かされたのだから、それはもう筆者の作品でもある。


好きなものを好きでいる大切さ

 もしもあなたが「世代じゃない」と言われたとしても、好きなものを好きでいることをやめたり、誰かに隠す必要はない。むしろ、好きなものが世代を超えていることこそ誇るべきことではないだろうか。

 最近では、古い作品を新しい世代向けにリメイクしたり、配信サービスを介し、誰でも観られるようになって来た。これは、作品が世代の枠を超えていることの証明だと思うのだ。

 それに、「世代じゃない」と言われたら、逆にこう考えるのもいいかもしれない。

「では、あなたは私の”世代”の作品をご覧になったのか。」

 相手がこちら世代の作品を知らなければ、反対に勧めるといい。好きなものを共有すると、楽しさは伝染するのだから。


まとめ:「好きなものは好きでいい!」

 結局のところ、好きなものを好きでいることに世代は関係ない。世代を超えて愛される作品は、それだけ価値があるものであり、何より「自分が好き」と思えるならそれで十分だ。

 だから、「世代じゃないでしょ」の呪言を浴びたらこう答えよう。

 「いいものはいつの時代だっていい!!!」

 好きなものを堂々と好きでいられる世の中になることを祈る。

平成弐年式、やぎ座のO型。 ふだんは行政書士事務所の代表、根暗をやっています。

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