写真は筋トレに似ている

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「好き」の分解

筆者は、10代の頃から写真が好きだ。ただ、「写真」といっても分解すると色々なプロセスに分けられる。

まずは「撮影」と「鑑賞」で、どちらかといえば、筆者は前者が良い。

無理に分ける必要はないが、わかりやすく敢えて分けています。

「感じろ」は無責任

筆者の撮影歴について、どんなに低く見積もろうとも10年は超えている。

この期間、Instagram、Tumbler、X(旧Twitter)等で自分の写真を披露してきたが、ほとんどは「好きに感じてもらえたら」のスタンスだった。

現実

寄せられるコメントは実に興味深く、全肯定を超え、崇拝の域を突き抜けそうなものもあれば、筆者がフォーカスした被写体とは無関係な内容。時には批判的な内容も受け取ったが、最も悲しかったのは「無」。

いいねもなければ、コメントもない「誰にも見向きされない自分の写真」越しに、己の未熟さを知るのであった(当時実装されていた機能のみではpv数を知ることは叶わなかったため、このような思考に陥った面もある)

こうした経験を通してわかったことは、自分は写真がうまくないことだ。

感じさせるものがないなら

筆者はいつも、自分を喜ばせるための写真を撮る(他者に依頼を受けて撮影するなど、滅相もない…!)

好きな被写体を、好きに撮影するだけなので、筆者を知らず、また、同じ被写体を「良い」と感じる価値観、感性を持たない人からすれば、単なる無機物で終わる。

うまい写真とは、「切り取られた一コマの背景、ストーリーを感じさせるもの」と筆者は考える。これは筆者の主観でしかないので、異論は認めます。

となれば、筆者の写真には「うまい写真」の「うまい」要素が一切ない。

だから、筆者が良いと思うものを他人に伝えるには、写真の内容を言語化するしかないのである。

すごいカメラだね

写真は、筋トレに似ている。使用するカメラが物理的に重いこともそうだが、「撮影力」を培うには、とにかく撮り続けるしかない。

筆者にとって、写真を撮る動作は日常だ。日常動作の多くはオートマだから、しょっちゅう忘れる。

「すごいカメラだね」

通行人AからZ

何かを撮影するとき、知らない人から声をかけられることがある。撮影していなくても、声をかけられることがある。

「お仕事ですか」と尋ねられることもあれば、「格好良いですね」と褒められることもある。

その度に驚き、平静を装いながら御礼を言い、時には笑って誤魔化したりもする。

上達するには

繰り返すが、筆者にとって撮影は日常。カメラを持ち歩くのが常態。外出時、自宅の鍵を持ち歩くのと同じこと。食後に歯磨きをするのと同じこと。

何かの上達に回数は必須だが、それだけで上達はあり得ない。筆者は声をかけられる度に反省し、少し、背筋がのびる。

目標を定め、実践し、評価し、改善策を講ずること。俗に言うPDCAサイクルを回さなければ、下手くそなままである。

本日の目標、花吹雪を写真に納める

だけどやっぱり、自分が喜ぶ写真が撮れれば、筆者は満足なのである。


 

平成弐年式、やぎ座のO型。 ふだんは行政書士事務所の代表、根暗をやっています。

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